非当事者として貧困問題の解決に取り組む(7)

第10回:非当事者として貧困問題の解決に取り組む(7)

 

これまで3回にわたって、日本のNGOや市民がフィリピンの貧しい住民と協働してプロジェクトを行うことでぶつかる文化的相違の問題を示し、それを克服していく中で、我々は実は「公」にも「私」にも回収されない国境を越えた市民の「共」的空間を構築し、「共」的価値観(=「地球市民」の価値観)を生み出しているのだと主張した。そして、そうした「地球市民の価値観」を生み出すのは本質主義的アプローチではなく、社会構築主義的アプローチであると述べた。

今回は、さらに日本のNGOや市民がフィリピンの貧しい住民との協働関係を構築していく中で現れる問題のひとつとして、両者の間の支配-従属関係について見ておきたい。

 

PRAと外部専門家の自己批判

NGOと住民との間でいかなる関係を作り上げることができるかについて重要な問題提起をしているのが、PRA(Participatory Rural Appraisal 主体的参加型農村調査法)と呼ばれる方法論である。PRAとは、従来の専門家による質問表に基づくインタビューによるコミュニティーの実態調査に対し、住民自身が地図や模型、季節カレンダーや一日の時間利用図、住民の組識相関図などを作成し、豊かさのグループ分類、点数付けや順位付けなどを行うことを通じて、コミュニティーに関する情報を自らの手で得る調査法として開始された。PRAの主唱者の一人であるロバート・ チェンバースは 、 各国における実践例を示しながら、 こうした住民参加による調査は「いったん始めると、地域住民はまず自分たちにできることの多さに驚く。そして誇りを持つようになり、エンパワーされていく」と、 単に調査にとどまらない成果と効果を報告している。そして次のように問題 提起している。

「(外部の専門家である)私たちの個人的な、また職業的な概念や価値観、手法、行動様式や態度が、私たちの学習の妨げになっているのである。・・・私たちのほとんどは、外部者として支配的立場にあったのである。講義し、気短にインタビューし、矢継ぎ早に質問を浴びせ掛ける。 話をさえぎり、聞く耳を持たない。貧しい人たちや力のない人たちを「抑圧」してきた。私たちのリアリティーが地域住民のリアリティーをもみ消して来たのだ。こうして私たちの思い込み、物腰、行動様式、態度が、一人よがりになってしまっていたのである。無能として扱われ、貧しい人たちは無能であるかのように振る舞った。 権力を持つ人の思い込みが貧しい人たちの言動に反映されていたのである。貧しい人たちの能力は隠されてしまい、自分たちですら気付くことができなかった。また外部の専門家も、地域住民が自分の知識を表現し、他人と共有し、さらに広めて行けるようにする方法を知らなかった 。」(R・ チェンバース『参加型開発と国際協力』明石書店、2000年)

 

NGOは神のごとく話す

チェンバース自身は大学に籍を置く「外部の専門家」としての自らの在り方に対する内省に基づきこうした発言を行っているのだが、彼の自己批判はそのままNGO自身が自戒しなければならない点でもある。以前「NGOは神のごとく話す」という言葉を聞いたことがある。フィリピンの友人から聞いた言葉なのか、何かの本で読んだのか、記憶が定かではない。だが、痛烈なNGO批判であることは確かである。NGOが高度な教育を受けたスタッフからなる専門家集団であればあるほど、開発に関する「真理」を独占し体現するものとして住民に相対し、たとえ「住民参加」や「エンパワーメント」「参画」といった用語を巧みに操っていたとしても、住民自身は操作の対象となってしまう。上の言葉はそうした一部のNGOの在り方に対する批判である。  

そしてこうした観点から私たち自身を振り返るとき、筆者の属しているNGO「アクセス」は専門家集団としての方向をめざしてはいないが、それでも同様の傾向を内包していることを認めざるを得ない。十分な教育を受けていないプロジェクト地の住民やプログラムの受益者たち、プロジェクト地の住民から採用するローカルスタッフに対し、教育を受けたものは日本人・フィリピン人を問わず、やはり権力を持ち、支配的な立場を持つのである。これは、教育を受けたものの主観的意図がどうあれ、構造的な現実であり、 私たち自身もそこから自由ではありえない。私たちがなさなければならないことは、そうした権力関係を正面から見据え、その関係を非権力的な関係へと変えていくことのできる方法論を模索し、 実践することである。

 

エンパワメント:変革の主体は開発専門家か貧しい住民か

この10 年ほど、住民参加型プログラムの重要性ということが盛んに言われてきた。政府間支援を前提とするJICA(外務省の外郭団体)ですら、当たり前のように「住民参加」を言う。だが、大卒や院卒のスタッフが全てのお膳立てをし、そのコントロールのもとで、しかも往々にして地域の有力者を通じて組織される「住民参加型プログラム」とは、何を実現するためのものなのだろうか。貧しい人たちは相変わらず受動的な対象であるという点において、これは形を変えた慈善に過ぎないのではないか。

私たちのエンパワメントプロセスは、これとは異なるものをめざさなくてはならない。最も貧しい者たちが、自分たちでできることの多さに気づき、自分たち自身に誇りを持つようなプロセスでなくてはならない。

私たちの生計プログラムを例にとろう。メンバーの大多数は女性であり、ほとんどの場合、学校教育の場以外では5 人以上の規模の人間が協働するような経験を持たない。家族労働で小規模の雑貨屋や軽食の調理・路地での販売の経験を持つ人がいるくらいである。事務経験者はほとんどいない。農村では女性たちが仕事を得ることはさらに難しい。雑貨屋を行ったり、食べ物を作って売ったりする女性もいるが、ほとんどの場合、家事・育児に専念する「専業主婦」であり、やはり協働の経験が極端に少ない。まして組織の運営の経験は皆無と言ってよい。

私たちはそうした女性たちに、商品の作り方を教え、品質基準を教える。組織の運営の仕方-分業・管理システム・意思決定の方法-を教える。南北の格差と不公正な交易システムについて、フェアトレードについて教える。貧困の原因と貧困問題の解決のために彼女たちが果たすべき役割について教える。さらに、彼女たちが作り出した商品を買い取り、日本その他で販売し、その売り上げを原資としてさらに商品を買い取る。そうすることにより彼女たちに継続的な収入を得る機会を提供する。

ここに客観的に存在しているのは、確かに、NGOと貧しい住民たちとの間の圧倒的なパワーギャップであり、知識と金が持つ力の偏在である。NGOに、住民に対して「神のごとき」態度をとらせることを可能にするのは、NGOの持つ知識と金の力である。知識と金を持つことによりNGOは貧しい住民たちに対し権力を持つ。そして、私たちがお膳立てしたプログラムの上で、私たちのスタッフのコントロールの下、スタッフがあらゆることについて教える、という点におい て、上で見たような「住民参加型プログラム」と変わるところはない。 

もし、私たちのプログラムに独自性があるとすれば、 次の点であろう。

 ①プログラムの呼びかけの対象が、最も貧しい人たちであること。フィリピンの貧しい農村地域にも有力者(地主とそれに連なる人たち)がいて、その人たちを中心に公私にわたって村の秩序が形成されている。私たちにとって、公私を問わ ず、こうした有力者に対し貧しい人たちの救済を呼びかけることは二義的である。私たちは、まずもって貧しい人たちに直接呼びかける。私たちにとって、貧しい人たちは救済の対象ではなく、問題解決の主体であるからだ。

②住民自身の力を増強することを目的にしていること。政治的・経済的・社会的文化的力を住民たち自身が獲得する必要がある。そのため、3 年や5 年などの短時日でプログラムの期限を予め切ったりはしない。私たちの経験では、最も貧しい人たちのエンパワメントは短期間では実現し得ない。

③他の地域・他の国の貧しい住民やNGOとの協働関係の構築を、エンパワメントの前提とすること。ある地域の貧しい住民だけで、自給自足的に貧困問題を解決できるようなことはありえない。地域を超え、国を超えて、協働関係を構築するなかでしか、問題を解決することはできな い。NGOが短期間にある地域でのプログラムを終了し、別の地域に移動してプログラムを行うことが推奨される傾向には与しない。

④NGOと住民の間の力の偏在が解決されるべき問題として公表され、プログラムの中に組み込まれること。権力関係が濫用されないようチェックアンドバランスをプログラムの実施過程の中に組み込むこと。

 こうして、プログラムの実施を通じて住民たちの力が向上するにつれ、NGOが行っていることは少しずつ住民自身によって行われるようになる。究極的には、これが、NGOと住民との間に横たわる権力関係を無化するための唯一の方法である。貧しい住民のエンパワメントのプロセスは、NGOと住民組織との間の力関係の変化のプロセスでもあるのだ。