第9回:非当事者として貧困問題の解決に取り組む(6)

 

前回、「NGOなどに示される市民の国境を越えた活動が発展し、市民による異文化間の共同事業が推進される中で、今後ますます「公」にも「私」にも回収されない国境を越えた市民の「共」的空間が拡大され、「共」的価値観(=「地球市民」の価値観)が形成されることは間違いない」と指摘した。引き続き「地球市民」が共有すべき・ 共有しうる価値観について考えてみたい。

 

イスタンブール原則にみる「本質的価値」としての「人権」

地球市民」が共有すべき価値観の一つに「人権」があるように思われる。「人権」という考え方の普遍性について、「イスタンブール原則」を例にとりながら考えてみたい。

イスタンブール原則とは、2010年9月に82ヶ国から170を超えるCSONGOと住民組織)の代表がイスタンブールに集まって議論を行い、CSOが実施する開発プロジェクトの効果を測る基準として採択したものである。8つの原則を掲げ、その原則に基づきプロジェクトを実施する場合に開発効果があるとする。CSOが自身の活動の「本質的な価値」*¹ を示すものであると宣言されている。そのイスタンブール原則の最初の二つが「人権」に関するものである。

  原則1.「人権と社会的正義を尊重し、推進する。」

  原則2.「女性と少女の人権を推進し、ジェンダーの平等と公平性を実現する。」

そして、人権を推進する方法として強調されているのが、「権利ベースアプローチ」(Right Based Approach、以下RBAと略記)という手法である。RBAとは、「当 事者の声を拾い、その権利を確保するために、政府に対して全ての人々の権利を尊重し、擁護し、そして履行するよう説明責任を求める」というものである。 RBAは、国民を権利保有者、政府を義務履行者とみなし、権利保有者に対して権利を行使できるようにするためのエンパワメントを行い、義務履行者に対しては義務を履行するための能力強化を行う。そのために、CSOは、まずその社会で最も権利を阻害された人々を特定し、同時に義務履行者の能力を測る作業を行う。次に権利保有者と義務履行者に対する啓発──知識を提供し、具体的な行動につながる 準備──を行う。その上で何らかのプロジェクトが実施される。プロジェクトが実施される際に重要とされることは権利保有者の参加である。そして義務履行者に対しては透明性と説明責任を求める。*²  RBAが 注目されている要因の一つには、チャリティ(慈善)的手法、つまり足りないものを与えるというそれまでのやり方の延長上には貧困問題の解決はないという共通認識がある。その意味では、筆者が所属する団体である「アクセス」のエンパワメントという考え方とも重なるところがある。

このように、貧しい人々、社会の周縁に追いやられている人々の権利を強調し、権利の実現を義務履行者たるべき政府に要求すべしというイスタンブール原則は、一見普遍的で本質的な価値として受け入れるべきものであるかのように思える。

 

権利ベースアプローチの隘路

だが、フィリピンという国で活動してきた経験からよくよく考えると、イスタンブール原則のような考え方は、特殊西欧近代的な捉え方に基づいた狭いものであ るということに気づく。

第一に、「義務履行者としての政府」という捉え方が、20世紀以降の、社会権生存権、教育を受ける権利、勤労の権利など)が成立し国家権力の積極的関与により社会的・経済的弱者の生存の維持をはかるべしという民主的福祉国家をモデルとした国家観でしかないのではないかという疑念が生じる。日本も含め、民主的福祉国家が当然の選択肢としてありうる国で暮らしている者にとっては、政府に国民の社会権を実現するよう求めることは、「本質的価値」なのかもしれない。だが、そうした民主的福祉国家が当たり前になっている国は、むしろ少数なのではないだろうか。フィリピンの政府を例にとると、9600 万人の人口を抱えるフィリピンが1兆8千億 ペソ(2012年度、約3兆4千億円。日本の歳出92兆円の約30分の1)の財政規模しかない。社会権を保障するための政策を、必要としている人にあまねく実施する力がないのである。さらに、そもそも西欧近代的な中央集権的法治国家が成立しておらず、大地主など地方の有力者が準軍事組織を私的に持ち、農地解放を要求する農民を殺害しても捕まらないような権力構造が存在している。

こうした状況の中では、<義務履行者としての政府に対し権利保有者たる諸個人が要求する>ことの前にやらなければならないことがあるのではないか。

まず、国家の民主化が必要不可欠である。民主化とは、普通選挙で大統領や国会議員を選ぶことと同義ではない。貧しい人々が力を持ち、自らの要求を自らの力で実現することが可能な国家を形成し、貧しい人々の利害を代表する政府を生み出すことである。

次に、フィリピンの貧困を再生産している社会経済構造を変革することである。フィリピンでは、農村の窮状を生み出している大きな要因である大土地所有制を解体し実際に農業に従事する人々に農地を解放することが、貧困削減を進めるための大きな条件となっている。そうした社会経済構造の変革を視野に入れない「権利要求」とは、結局のところ、大土地所有者の慈悲にすがることしか意味しないのではないだろうか。国家の下で大土地所有者もまた権利の保有者であるとき、そうした社会経済構造の改革という課題に「権利保有者と義務履行者」という枠組みでアプローチできるのか大きな疑問である。

 

第二に、「人権」という概念そのものが歴史的にみて普遍的に受け入れられてきた訳ではないし、現在 においてもあらゆる場所で受け入れられているわけではないという事実を指摘しなければならない。今では日本国民にとって「当たり前」となっている女性参政権は、「先進国」も含め多くの国では戦後初めて認められたものである。他方、現代においても「人権」を受け入れていない人々は多数存在する。イスラム教の影響の強い地域では、「名誉の殺人」「女子割礼」「女子の就学制限」など、実際に現在でも女性に対する多数の虐待や差別がある。(ただし、割礼自体はコーラン等では言及されておらず、イスラム以前からある地域の慣習であるとされるが。)*³  これらは、「人権」概念に明らかに反しており、「人権」を当たり前のものとして受け入れている私たちからすると、あってはならないことだと断言できる。だが、問題は、これらの女性に対する虐待や差別が、イスラムの伝統的な価値観に照らして正しいと少なからぬ人が信じているという現実であり、そうした価値観・社会原理に従って社会が編成され、営まれているという現実である。「本質的な価値」として「人権」を掲げてしまえば、「人権」に反する価値観・社会原理に従って営まれている社会生活は、本質的悪ということになってしまいかねない。

 

直接の協働関係を基礎とした新たな価値の創造を

前回も述べたように、こうした価値観の違いにアプローチする際に本質主義的アプローチを取れば、必ず自文化中心主義に陥る。だが、イスラムの伝統的価値観も一つの価値観で、こうした女性に対する虐待や差別もあってしかたがないという文化相対主義的主張も受け入れるわけには行かない。イスラムの伝統的社会編成の中にあっても、彼女たちは肉体的・精神的痛みを感じているはずだからである。私たちは、絶対的正義として「人権」を掲げることなく、けれども誰もが等しくそうした痛みから解放されてしかるべきだという「人権」概念の持つ力、相手に寄り添い「いやだ」と言葉を発することを鼓舞する力を正しく認め、社会の中で周縁に追いやられ、抑圧されている人々が自らを解放するための道具として、その思想内容を語り掛けるべきではないか。

「アクセス」は、フィリピンのムスリムコミュニティでの恒常的な事業を行っていない。だが、将来事業を行う際には、ムスリムの人々と直接協働して事業を行うことを大切にしたい。クリスチャンのフィリピン人と、ムスリムのフィリピン人と、宗教性の希薄な日本人が、それぞれの文化的背景を尊重しながら、共通の課題である貧困削減のために協働することを大切にしたい。そうした協働関係を大切にする中で、もしそのムスリムコミュニティの中で女性に対する差別や虐待が行われていたら、私たちは痛みを感じているはずの女性たちに呼びかけようと思う。痛みを肯定する必要はない、と。そして、彼女たちが自らの力で差別や虐待と闘うことができるように支援したい。同時に、コミュニティの男たちにも呼びかけたい。彼女たちは、痛みを望んではいないのではないか、と。そうした努力を粘り強く行う中で、共に大切にすべき価値が新たに生み出されることを信じたい。

 

注)

*1:「シェムリアップコンセンサス CSO開発効果に関する国際的枠組み」(CSO開発効果オープンフォーラム、2011年6月。(特活)国際協力NGOセンターによる訳による)

*2:以上、RBAの説明はJANICイッシューペーパー NO.2 『釜山への道、釜山からの道:CSOと援助・開発効果』((特活)国際協力NGOセンター、2012年3月)による。

*3:以上、イスラムに関する記述はウィキペディアによる。