ボランティアという活動ー当事者運動と非当事者運動の出会いが生み出す「共」性

 

以下の文書は、2011年10月から2013年8月まで、国際経済労働研究所機関誌「Int'lecowk」誌上に「未来への扉-国際協力NGOの活動から見えてくるもの」と題して15回にわたって連載したものである。

 

第1回:ボランティアという活動
── 当事者運動と非当事者運動の出会いが生み出す「共」性


筆者はフィリピンにおける貧困削減に取り組む国際協力NGOの理事・職員を務めているが、本稿では、N G O活動の事例を紹介しながら、いわゆるボランティア活動の持つ意味と可能性について提示しようと考えている。

ボランティア活動の定義と歴史

ボランティア活動は、一般的な定義では「自発性」「無償性」「利他性」に基づく活動とされるが、今日ではこれらに「先駆性」を加えた4つをボランティア活動の柱とする場合が一般的になっているという。自発性とは、他に強制されて活動するのではなく、自らの内発的な欲求に基づき主体的に活動することである。無償性は、活動に対する対価を伴わないことである。利他性とは、利己性と対比して考えれば分かりやすい。己の利益のための活動ではなく、他者の利益のために活動することである。先駆性とは、創造性や開拓性とも言われるが、現状維持のために活動することではなく、より良い社会、より良い世界を新たに創造するために活動することを指している。

このようなボランティア活動は、例えばスペイン内戦(1936‐39)時、諸外国から人民戦線政府支援のために派遣された国際旅団のボランティア=義勇兵などの例もあるが、一般的には社会的に弱い立場に置かれている人々に対する慈善(チャリティー)活動と重ねて理解されることが多い。慈善活動の歴史は古く、近代以前においても宗教者や貴族などの特権層が貧困層や病気や障害を負った人々に種々の慈善活動を行っている。近代市民社会の成立とともに、慈善活動は宗教的背景を弱め、公的救済施策が未成熟な時期においては友愛組合などの相互扶助組織とともに民間の自発的な救済事業の一翼を担った。慈善事業が新興の中産階級である産業家や商人によって活発に展開されたのである。こうした慈善事業は,20世紀に二つの大戦を経て国民一般を対象とする生存権保障制度の一環としての社会福祉へ脱皮することになる。この過程の中で、それまで一部の慈善家によるボランティア活動であった事業は、国および地方自治体が責任を負うべきものとされるようになり、人びとの社会生活上の障害や困難の解決・緩和,最低生活水準の保障,自立生活力の育成などの社会福祉サービスは、基本的には一定の知識と技術をもつ専門家集団によって供給されることとなった。そして、民間団体は国や地方自治体の福祉事業を補完するものとなった。


日本におけるボランティア活動の展開

日本では、1995年1月の阪神・淡路大震災を契機にボランティア活動が飛躍的に増大した。厚生労働省のホームページによると、社会福祉協議会ボランティアセンターで把握しているボランティア人数が1980年の160万人から2007年830万人に5.2倍の増加、グループ数は同1.6万グループから14.7万グループに9.2倍の増加となっている。これに、国際協力系のボランティア数(全国で400 ~ 500あるとされる国際協力NGOのうち、国際協力NGOセンター加盟の243団体の2010年10月現在会員数176千人、JICA海外ボランティア2009年11月末現在約3千人、それに年間約3万人と言われるスタディーツアー参加者などを勘案すると)21万人前後が加わると、少なく見積もっても約850万人が何らかの形でボランティア活動に関っていることになる。 

こうした状況は、80年代までの、行政の補完的存在という位置づけを超えて、ボランティア活動が新たな状況を生み出す可能性を示していると言えるのではないか。


「公」「私」「共」の構造

 近代社会の基本構造が、利を求める「私」の領域、政府(官)に代表される「公」の領域、民が共有する「共」の領域からなるとすれば、戦後日本社会は産業化・都市化が進む中で伝統的な共同体が崩壊し、「私」と「公」への二極化が進み、「共」の要素は「公」と「私」によって代行されてきたといえる。例えば、いわゆる日本的経営といわれたものは、家族主義的とも言われ、いわば「私」の中に「共」の要素を持ち込んだものといえる。社会保障制度の膨張は「共」が持つべき相互扶助の要素を「公」が代行するものであった。その結果、民は自ら「共」を構築する能力を失い、「公」や「私」が生み出す「共」的枠組みの中で、受動的・補完的役割を果たす存在におとしめられてしまった。社会学者の宮台真司によれば、日本では「民主主義の基本である<引き受けて、考える作法>の代わりに<お任せして、文句をたれる作法>が一般的」ということになる。しかも、右肩上がりの経済の下での完全雇用を前提とし、そこから落ちこぼれる人を救済することを旨とした戦後の「公」による社会保障制度は、バブル崩壊後の構造的不況、自由化の進展、および企業の海外移転による国内産業の空洞化により進行した雇用の流動化・不安定化の中で、その前提を失い、「公」と「私」による「共」的機能の代行という構造そのものが破綻しつつある。無縁社会と呼ばれる状況は、こうして「公」も「私」も「共」を代行する力を失い、かといって「共」そのものが崩壊している今の日本社会を端的に象徴しているといえる。3・11以降の事態のなかで新たな「共」の構築が一層強く求められているのではないだろうか。


運動の先駆性と「共」性の喪失

とは言え、民による下からの様々な運動、労働運動や公害問題などに取り組む住民運動、反差別運動など新たな「共」を生み出す動きもあった。これらの運動は、その内発的な動因において利他的なものと言うよりは、自らが抱える問題を解決するため、当事者自らが参加するという意味において利己的なものであった。だが、同時に、こうした諸運動は、社会の中で立場が弱い者が、より大きな権力を持っていて問題を生み出す側に対して批判や要求を行い、単に当事者の経済的利益を追求するのみならず、それぞれの運動が掲げる要求の普遍性に応じて社会変革の性格(先駆性)を持つものであった。そうした普遍性をもつからこそ、数多の非当事者もまたそうした運動に「共」的な意味を見出し、共鳴した。こうして運動の中で、当事者と非当事者が出会い、ともに大切にする共通の価値を持ち、あるいは創り出すことにより、社会の新たな「共」性が生み出されたのである。だが、それぞれの運動が大きくなり、制度化し、「公」や「私」に対して既得権益を持つようになると、つまりは利他性よりも利己性が強くなってしまうと、こうした運動は先駆性を失う。そうなると運動は「私」化するか「公」の下請けと化し、非当事者の運動への共感は薄れ、「共」性を失ってしまう。


「共」を生み出す運動へ

ボランティア活動の最大の特徴は利他性と無償性にある。福祉であれ、環境問題や国際協力であれ、あるいは町づくりであれ、自らの直接の利害のためではなく、ある種の普遍的な課題(=ミッション)に活動の意義を見出し、自ら参加する。それゆえ、建前と本音の二重化を許す余地が少なく、「私」化しづらい。ボランティア団体が、ミッションに反する行動を恒常化すれば、自壊せざるを得ない。こうしてボランティア活動は、新たな「共」の構築のための有力な一翼足りうる。

むろん、日本社会の中で歴史の浅いボランティア活動が克服すべき課題は多い。欧米のように宗教的背景を持たない日本では、ボランティア活動を支える理念がアプリオリに社会的に共有されているとは言えない。その結果、端的に言えば寄付文化がなく、ボランティア団体は自立しにくい。それゆえ「公」の下請けにならざるを得ない。また、家庭の主婦、退職したシニア層、そして親の経済的な支援を受けることのできる学生層など一部の余裕のある人たちの活動に留まってもいる。だが、直接的な利害を持たない非当事者としてのボランティア活動が、自ら問題を解決しようとする当事者の運動と出会い、互いの関係を見つめ、違い=多様性を尊重し、なおかつ共有できる大切な価値観や規範をともに生み出すとき、そこに「私」にも「公」にも包摂されない「共」的関係と空間が生み出される。ボランティア活動に参加する個々の人々の善意に基づく活動から、そうした「共」を生み出す運動へと発展することが、日本のボランティア運動には求められている。